実は私は英会話学校に行かずに英語を話せるようになり、その後25年間外資系で人事の仕事を続け、最後は世界170ヶ国で展開する企業の採用・人災開発の責任者になりました。
それは子供のころのほんの小さなきっかけからで、社会人になってからは後は目の前の必要なことをひとつひとつ積み上げた長い歴史です。
本当に長い話なのでお時間があれば読んでみてください。
目次
子供のころ横田基地の近くに住んでいた
私は東京西部、青梅線沿線に生まれ育ちました。
最寄り駅は米軍横田基地のある福生駅から三つ目の駅で
あらたまったお買い物といえば青梅線に乗って米軍の街、福生まで行き
地元のデパートに入るのが定番でした。
当時、福生の街には米軍関係者が普通に買い物をしていて
地元の人は米軍関係者のことを「アメリカさん」と呼んでいました。
福生の七夕まつりは旧暦の8月に開かれる当地では有名なイベントで街を揚げて盛りあがりました。
母が英語で困っている店員さんを助けた
その七夕祭りの時、3歳だった時だと思いますが福生の地元のデパートに入りました。
間口が狭いその店はフロアが奥に向かって伸びていて
今ではほとんど見られない、3段の棚があるガラスのショーケースが並んでいました。
ショーケースには一段ごとに上に長い蛍光灯が付いていてショーケースの内側を照らしていました。
私は母が買い物をしているのを、ショーケースの一番下の棚にお尻をのせて見上げていました。
私の英語との出会いはその時です。
そうだ、大きくなったら英語を話そう!
ひとりの店員さんがアメリカさんとのやり取りで難儀しているのを見た母が
すっと側に行って私の知らない言葉を口から発したのです。
そして一件落着。
店員さんが母に頭を下げていました。
そのアメリカさんはプラチナブロンドの髪を夜会巻きにした背の高い女性だったのが目に焼き付いています。
ちょうどバービー人形のようなすらっとした人でした。
私はそれをショーケースに腰かけてぼ~と見上げながら
「私も大きくなったらあんな素敵な人と話したい」と思いました。
まさに「三つ子の魂、百まで」の始まりでした。
まずは積み木でひらがなを覚えることから
3歳児は3歳児なりに考えました。
どうしたら英語が話せるようになるかな?
たぶん、字が読めないとダメかな?
家にはひらがなが書いてある四角くて薄い、木製の積み木があります。
青いナスの絵が描いてある積み木の裏には「な」と書いてあります。
赤いトマトの絵が描いてある積み木の裏には「と」と書いてあります。
まず積み木でひらがなを覚えました。
ひらがなの次にしたのがカタカナを読めるようになること。
親にどうやって説明したのか覚えていませんが、ピンクのプラスチックの下敷きを買ってもらいました。
やわらかい透明なカバーが付いていてプラスチックとの間に「カタカナ50音」の表が入っています。
そのカタカナをひらがなのフリガナを頼りに覚えました。
カタカナが読めるようになったら次はアルファベットです。
いよいよ英語への足がかりが見えてきました。
今度はアルファベットにカタカナのフリガナが付いた一覧表の下敷きを買ってもらいました。
そしてすぐにアルファベットとローマ字が読めるようになったのです。
この
ひらがな → カタカナ → アルファベットとローマ字
を読めるようになるのにかかったのは1週間より短かったと思います。
大人になってから母から聞いたのでたぶんそうなのでしょう。
ものすごい集中力で早朝うす暗いうちから夜ねる直前まで下敷きとにらめっこ。
早朝の四畳半の畳の上で電気もつけずに薄暗い中、腹ばいになって下敷きを見ていると、玄関の曇りガラスから日の光が入っているのが見えました。
文字が読めたら次は小学生向き英語テキスト
私はついに、ひらがな、カタカナ、アルファベットとローマ字が読めるようになったのです。
その次に(これは覚えていますが)、父に「英語の本が欲しい」とねだりました。
父はまもなく水色で厚さ1センチくらいの「小学生のえいご」という本を買ってきました。
今、Amazonで検索しても出てこないので(60年近く経ってますものね)、絶版したようです。
イラストが中心の単語集みたいな本でした。
動物やモノのイラストにアルファベットで英語名が書いてあってひらがなが振ってありました。
アクセントの位置などはないけれど、自己流でほとんど覚えました。
週末、家族そろって朝寝坊している寝床の中で父が
「ハリネズミ」と言えば私が「ポーキュパイイン!」
と答えるようなやり取りを毎週繰り返していました。
「小学生のえいご」という本以外にはNHK 3チャンネルで早朝6時台にやっていた「英会話」番組を観ていました。
外国人がジャケットを着てお茶の間のテレビに映っていたのを覚えています。
今思うとジェリー伊藤さんだったと思います。
セサミストリートが始まる
1969年、Children’s Television Workshop によるセサミストリートの放送が始まります。
夏休みや春休みには午前と午後、同じ回を放送します。
生の英語に触れられるのがうれしくてうれしくて夏休みの40日間、毎日2回見ていました。
その時なんとなく音で覚えた単語の中に People と Collaborate があります。
たくさんの人たちがドヤドヤとやってきて何かを運んでいく。
People, Collaborate という音声が流れるので 人がみんなで何かすることが
People Collaborate だとわかりました。
でも観ているだけじゃ物足りない。ということで今度は話したいから「カセットテープが欲しい!」ということに。
旺文社のカセットL L をねだる
LLって何の略称かわかりませんでしたが恐らくLanguage Laboratoryですね?
うちの家計にとっては負担になったんじゃないかと思いますが、親が買ってくれました。
Vol. 3 くらいまで、テープがヨレるくらい聞きました。
今思うとレベル的に中学1年生で習う英語の半分くらいまでです。
話せるようになりたい英語を繰り返し聞くことができるのが嬉しくて仕方がありませんでした。
中学に入ったらビートルズの赤アルバム・青アルバム
そして1973年春、中学に入って待ちに待った英語の授業が始まりました。
更になんと幸運なことにそのタイミングでビートルズの赤アルバム・青アルバムが出ました。
すでにカーペンターズやエルトンジョンをラジオで聞いていたので洋楽に全く抵抗なく、すぐにのめり込みました。
毎日自分の部屋で何度も聞く。
そのうちレコードを包む袋に書いてある全て大文字の歌詞を見ながら一緒に歌う。
とうとう赤アルバム26曲、青アルバム28曲、合計54曲全部を歌えるようになったのです。
まだ文法も分からず意味もわからないのに。
楽しくてたまらない
そうなるともう楽しくてたまりません。
中学校から家に帰るとまずビートルズ。
レコードの内袋に大文字で印刷してある歌詞を見ながらレコードばかり聴いている毎日。
そして耳が慣れてくると真似して歌うようになりました。
そして気づいたこと。
書いてあるスペルとビートルズの唄っている発音が違うっていうことです。
今考えるとディクテーションの唄うバージョンをやっていたことになります。
ビートルズからローリングストーンズ、エアロスミスと私が唄う範囲はどんどん広がっていきます。
そうなると文法で悩むことなく英語の構文が頭の中にできてしまって、正直試験勉強ってしたことありませんでした。
中学の英語の先生は青山学院大学の英文科を首席で卒業したという評判の先生で
日本人でもあんなにきれいな発音ができるんだ!という目標にもなりました。
英語の授業が楽しみで、終わると毎回必ず先生に質問に行きました。あまり授業と関係のないことばかりだったので、先生からすると迷惑だったかもしれません。
そしてその後の英語学習は授業で文法の説明を聞いたときに先に言葉の順番や発音が頭の中に出来上がっていますので
授業のすべてが「な~るほど!」ばかりだ他のです。
受験勉強は高校2年生の4月から5月にかけて
「試験に出る英単語」と「試験にでる英熟語」(いずれも青春出版社)を両方を
例文まで覚えただけです。
その時点で浪人生まで含めた全国模試を受けたら偏差値74でした。
その後、高校や大学では短期留学やサマースクールの機会もありました。
残念ながら親からの「若い女の子が海外なんて。。。」という反対があり
英語に縁がないまま私は普通の大学生として過ごしたのちに新卒で日本企業に入社します。
そして25歳でビジネス英語の職場に
実は25歳で離婚をしました。当時は「バツいち」なんていう優しい(?)はなくて「出戻り」とか「キズモノ」という範疇に入ってしまったのです。
そうなると日本の会社では居心地の悪いことと言ったら!
自然と「どうしたら自分で生計を立てていけるかな?」
と考えるようになりました。そして
「そうだ!英語で仕事が出来れば長年幅広く活躍出来て、外資系にも就職できるかも」
というとてもシンプルな結論にたどり着いたのです。
離婚のために弁護士さんのところに通う日が続き、ある日、駅のキオスクで「とらばーゆ」という当時リクルート社が出していた女性向けの転職情報誌を見つけました。
何の気なしに買ったのですが。
そこには私の人生を変えてしまうきっかけになる求人情報が載っていたのです。
「International Language Centre 総務担当求む」
本国から赴任してくるイギリス人講師をサポートする仕事。
ピン!と来ましたよ。
すぐ履歴書を書いて郵送しました(ネットがない時代ですから)。
あとで聞いたことですが、このとき25人の応募者のなかから私がひとり受かりました。
その理由は恐らくたった二つの英語を覚えていったから
① 自宅から面接会場の英語学校までの道順を英語で言えるように練習した
② 何を聞かれても(聞き取れなくても)元気よく Yes, I can!と答えた
これだけでした。
出社第1日め:イギリス英語が全く分からない
このイギリス系英語学校からオファーをいただいてから勤め始める前に私はマザーグースの詩を毎日音読しました。
少しでもこれから同僚になるイギリス人たちのことをわかろうと思って。
それなのに、出勤一日目につまづきました。
Can I borrow your scissors, please?(はさみを借りていいですか?)
同僚のこの一言がまったく聞き取れないのです。
彼は3回くらい言っても通じないので指を2本並べて動かし、はさみのマネをしたところ、ようやく私が「はさみ」と分かった次第です。
ただし、この日の収穫は、聞き取れない時に
Sorry?
と聞けば相手がもう1度、あるいは2度、3度、繰り返して言ってくれるということ。
それからの3ヶ月間、私は自分からは殆ど話せずに
Sorry?
ばかり繰り返すことになります。
Sorry?は便利な言葉で
「いま、なんて言ったの?」
「どういう意味?」
「もう一度言って」
といった意味に使えます。
ただし、聞き返したときに相手がもう一度言ってくれた言い方をまねし発話すること。そうしてネイティブのマネをして、一つずつコツコツと覚えていきました。
でも正直なところ、朝から晩まで英語になってしまったので、通勤電車の中で人の話し声が聞こえると
一瞬、「英語? 日本語?」と考えてしまうほどノイローゼ気味だったと思います。
3ヶ月後に英語が空から降って来た!
そんな冷や汗たらたらな日々を送る中でちょうどその3カ月後に事件が起きました。
お昼休みにロビーのソファーでのんびりしていたところ、日本語が堪能な同僚のマリーナが英語で話しかけてきたときのこと。
マリーナに英語ですらすらと返せたのです!
口が動く。
あらかじめ頭の中で作文していないのに英語が口から出て来る!
それは自分でもびっくりしました。
後でマリーナから「ゆうこちゃん、どうして英語が話せるようになったの?」と聞かれたとき
「とつぜん、空から降って来たみたいに口から英語がでるようになったの」
が私の答えでした。
マリーナはハワイ出身のイタリア系アメリカ人で、大人になってから日本語を身に付けたので
私の「空から降ってきた」という答えはすぐにマリーナの腹に落ちたようです。彼女もそうだったとか。
英語のレポートを書くことになる
その英語学校では海外で開発された外資系営業マネージャーの研修のライセンスを持っていました。
国内で研修が売れると外注した講師が登壇して2泊3日の営業マネージャー研修を幕張にあるOverseas Vocational Center (OVTA)で開きました。
ただし、研修はやりっぱなしではなくて、後日そのレポートをイギリスの研修会社に出すのです。そのお役目がある日、私に回ってきました。
1年くらいでしょうか。合計10回以上、研修事務局としてOVTAに泊まり込み、研修の進行具合の記録を取って研修が終わると英文でレポートを書く。
英語のレポートなんて書いたことがなかったので過去のレポートを、なぞるように書いたものです。
今、振り返ってみるとそのおかげで「大枠から書く。そのあと詳細の説明や描写を書くという手順が身に付いたようです。
当時は英文メールはまだなくて、89年ごろから使うようになりましたが、その時に「英文を書く」というイメージができていたので重宝したものです。
そういえば、このころPCと言えばマッキントッシュというPCをイギリス人のダイレクターが使っていましたね。
本体が高さ40センチくらいで頭にアップルマークがついています。白いカーソルが黒いスクリーンにチカチカと点滅していました。
英語学校に約3年間いた後、アメリカの証券会社に入社しました。
きっかけはJapan Times 月曜日版の Classified という求人広告でした。
そろそろ英語で仕事ができるとう実感を持つようになってから毎週月曜日にJapan Timesを買って一番後ろの面の求人広告を見ていたのです。
人事の教育か採用の仕事を探していました。
英語で電話を掛けることになる
採用・教育として入社したのですが入社直後になんというタイミングでしょう!かなり思い病気を発症しました。いまでは薬でコントロールしていますが、いわゆる完治しない指定疾患です。
当初は週に2回も通院しなければなりませんでした。強い薬で一睡もできない日々が続きました。
採用・教育の仕事は朝早く、夜遅く、当時のことですからメールもなく採用は電話で連絡がメインでした。
次長が見かねて出入国管理やヘッドカウント管理の仕事に回してくれたのですが。
その時の上司はアメリカのMBA取得者だったにも関わらず「私、英語を話すのはニガテ」という方でした。
となると当然、部下である私が電話をすることになります。
あるとき証券会社の最前線で仕事をするトレーダーが日本への入国時に非課税ワクを超えたワインを持ち込んだことがありました。
当然、追って課税されることになるのですがその税金はいったん会社が支払って、のちにその方の給料から天引きすることになります。このあたりの仕組みは正直わかりません。
とにかく、本人にそのことを事前に伝えなければならない。ということで私が上司の代わりに電話をすることになりました。
事前に伝える内容を箇条書きにして電話のわきに置き、電話をしたら間髪入れず先方は電話口に出たのです。
「〇〇〇〇!」
彼の名前は憶えていませんが、英語だと自分の名前を名乗るだけ。時間的ゆとりがゼロですから心臓がバクバクしました。
メモを見ながらとにかく「給料からワイン持込の税金を引き落とします」と伝えたところ
すごい剣幕で(明らかに怒っている!)まくし立て始めました。
こちらは怖いので「Thank you!」と受話器を電話にたたきつけるように通話を切ってしまったのです。
そのあと時間にして10分。
白いワイシャツに黄色のネクタイの男性が人事部に乗り込んできました。
大きな声で
「Yukoは居るか!そいつを首にしろ!」
と叫ぶのが聞えました。私はまさかそんな大騒ぎになるとは思ってもみませんでしたが
すすすっと部屋の奥に隠れました。
上司とその男性の間のやり取りがどんなだったかは分かりませんが、私が電話を途中でガチャンと切ったことが大変気に障ったようでした。
話の内容が「給与天引き」だっただけでもご本人にとっては嬉しくないことだったことでしょう。さらに説明の途中で電話を切られた」!
怒っても仕方ないですよね。
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さてこの後、私はこの会社を2年と3ヶ月で退職することになったのですが、突然バイリンガルセクレタリーの仕事をすることになります。
そして上司やご縁のある方との出会いがあり海外留学へと続きます。続きはまた近々書きます。